謙信公法衣座像は何を語るのか?
今夏、古くからの友人から木像を譲り受けました。友人の孫じいちゃんが所有していた謙信公法衣座像です。作者の銘はどこにも刻まれていません。このことをきっかけに、私自身が10年前に最初に謙信公法衣座像に出会った体験を記します。
聖・上杉謙信公法衣座像は何を語るのか?
10年前に出会った聖・上杉謙信公法衣座像
この度友人から譲り受けた謙信公法衣座像
1,まえがき
以下の文章は私が出会った聖・上杉謙信公法衣座像(彫像)の作者捜しの顛末を記録したものです。私は美術研究家や歴史研究家ではありません。上杉謙信公と春日山城のファンなだけにすぎません。ほぼ時系列に沿って記しているだけなので、分かりにくい面も多々あろうかと思いますがご容赦願います。
2,上杉謙信公法衣座像(彫像)とは?
上杉謙信公法衣座像(彫像)は明治45年9月に、高田中学校(現高田高校の前身)内に設けられた謙信文庫より(1)滝川美堂に製作依頼があり、翌、大正2年5月に納品されたものが創作第1号である。美堂が謙信公像を製作するまでは上杉謙信公の彫像は一体もなかったのである。美堂は自ら「独創上杉謙信公像」と書いているが、まさに独創であった。なお謙信公像には、法衣座像、甲冑像、騎馬像がある。美堂はこれ以降、生涯に835体の謙信公像を彫った。構図は林泉寺所蔵の(2)謙信公自画自賛の座像の肖像画である。
(1)滝川美堂
明治13年能生町(現糸魚川市)に生まれ、旧直江津市五智に住み、木彫を製作、特に上杉謙信公の像を得意とした。昭和36年3月3日、80歳で没する。
(2)謙信公自画自賛の座像の肖像画
謙信公が生前に描かせた2枚のうちの1枚。法衣をまとい右手に軍配、左手に数珠を持ち、脇差しを差している。
3,聖・謙信公法衣座像(彫像)に巡り会った経緯
3-1 本像との出会い
平成20年9月8日、いつも親しくさせて頂いている妙高市の水野さんのところで、きのこ汁による6~7人の飲み会があった。夜の10時頃、水野さんと二人きりになり、たまたま謙信公の話になった。「そういえば2階に最近貰った像がある」2階から戻ってきた水野さんは、私の目の前に像を無造作に置いた。「これ、武田信玄だよね」「だって、軍配を持っているもの」「川中島の合戦で太刀を持って切りつけたのは謙信で、軍配でよけたのは信玄だからね」私は見た瞬間「ご冗談を、これは紛れもなく上杉謙信公じゃないですか」「それにしても凄い像ですね」と褒めちぎった。「そうかね、そんなに気に入ったんならおまんにやるわね」と言われたが、一瞬、間を置いてから「いや、この像はあなたのような心ある方こそが所有するべきです」と答えた。水野さんは常日頃から「心ある人がいない」と嘆いていたことを思い出したからである。私は内心では「喉から手が出るほど欲しかった」というのが本音であったが、やせ我慢をして答えた。水野さんは本気で像を武田信玄と思い込んでいたのである。
3-2 聖・謙信公法衣座像(彫像)が日の目を見た経緯
現所有者である水野さんの話では、今年、上越市高田の大町のさる住宅の改築にからみ、蔵の解体をした折りに出てきた物で、家の人もよく分からずに、解体をした建築業者の社長に渡したとのことである。社長も処置に困り、知り合いである高田在住の高野山(真言宗)の僧籍を持つ博道さんに委ねれば、「必ず良きに取りはからってくれるだろう」と思い渡した。しかしながら、博道さんは像には全く興味が無かったため、知人である骨董好きの水野さんに譲渡した。博道さんも水野さん同様、像を本気で武田信玄と思いこんでいたのである。
上杉謙信公は真言密教に深く帰依していた。2度の上洛において2度とも紀伊高野山金剛峯寺にまで足を伸ばし参詣している。1日6時間にも及ぶ読経を自らに課し、春日山城内に設けた看経所に籠もったといわれている。27歳の時、越後の国主の座を捨て、出家して僧になるべく高野山に向け隠遁しかけ、関山神社で家臣に引き留められ思いとどまったように、本気で仏の道を求め続けた。「不識院殿真光謙信法印大阿闍梨」という法名を授かってもいる。法衣座像の肖像画が残されている所以である。同じ真言宗の僧籍を持つ博道さんを介して、今、日の目をみている。不思議といえば不思議なご縁である。
4、作者捜しの顛末
初めて謙信公像を見た夜、とうに日付は変わっていたが興奮してなかなか寝付くことが出来なかった。翌日、キノコ採りで妙高笹ヶ峰の山中にいたが、謙信公像のことが頭から離れることは一時もなかった。帰途、水野さんにお願いをして謙信公像を一晩お借りすることにした。
家への帰り道、誰に最初に見て頂くか車中で考えた。上越市教育委員会社会教育課生涯学習課の学芸員の中西聡さんのことが頭に浮かんだ。私は「春日山城を守る会」に入っているが、15年位前の会の散策会で、宮野尾の謙信公の母、虎御前の墓を中西さんに案内をしていただいて以来、その誠実そのものの人柄を深く尊敬していた。中西さんは大学で仏教美術を専攻していたのでご覧頂くにはうってつけと思った。中西さんは議会開会中の忙しい中、アポ無しにも関わらず貴重な時間を割いてくれた。「銘が無いので滝川美堂作かどうかは判らない」「製作年代としては明治の末頃ではないか」ということであった。謙信公にはその日はとりあえず春日山の我が家にお泊まり頂くことにした。
キノコ採りで忙しい中、翌日から精力的に作者捜しを始めた。私が上越市観光ボランティアガイドになるきっかけを与えてくれた、上越観光案内協会会長の永見完治さんに連絡を取った。永見さんは自他共に許す永年の大の謙信公ファンである。私の説明を聞き興味深く見られ深く感動した様子であった。「謙信公の大ファンということでは人後に落ちない、高田郵便局長にご覧頂こう」という永見さんの提案で、早速二人で出向いた。局長は折しも「天地人」にちなんだ高田郵便局発行の記念切手の準備に忙しそうで、心、目の前の謙信公像にあらず、という感じで期待したコメントは残念ながら一切頂けなかった。我々二人は何の為に電話で予定を聞いてまで来たのだろうか。局長は「これから、切手の件で林泉寺に赴かなければならない」ということで、我々はほうほうの体で早々に引き揚げざるをえなかった。
林泉寺の笹川住職に会おうと思ったが、今からでは局長がいて早過ぎると感じ、迂闊にも途中市役所に寄ってしまった。秘書課の窓口の女性に「上越の最も心ある政治家の方にこの像をご覧頂きたい」と市長に面会を申し入れたが、その後対応してくれた男性の上司は、不審者扱いの眼差しで、けんもほろろの対応、私はそそくさとその場から退却せざるを得なかった。当たり前である。いくら数年前に市長と市長室でさしで懇談したことがあるといっても、議会開会中、ましてやアポ無しである。その上私は甚平姿で謙信公像の風呂敷包みを抱えサンダル履きという異様な出で立ちである。(私にとっては、春日山神社の売店で購入した毘沙門入りの甚平なのでそれなりのこだわりがあった)秘書課の方々には大変なご迷惑をおかけしてしまった。今思うに警察に通報されなかったのがせめてもの温情であったと思われる。「私の手元には謙信公像がある」「誰も私の行く手を阻むことは出来ない」というような錯覚に陥っていた。思い込んだらまっしぐら、私の悪い病気が又出てしまった。
まだ林泉寺に赴くには早過ぎると思い春日山神社の小川清隆宮司を訪ねた。植物の研究者で、植物のことで判らないことがあると年に数回お邪魔しているがいつも快く対応して頂いている。今回は原稿の締め切りに追われている真っ最中とのことで5分程度で早々に引き上げた。「よく判らない」ということで、踏み込んだお話を聞くことは出来なかった。(後で調べて判ったことであるが、春日山神社には滝川美堂より謙信公像が40数体程奉納されている)玄関から参道に出ると、私のすぐ目の前を通り過ぎる人がいた。背中越しに声をかけた。「植木先生!」上越市文化財調査審議会委員長を努めておられる植木宏先生である。会いたいと思う人には自然に会えるのも謙信公像のお陰であると感じた。参道の白いベンチの上に風呂敷包みからおもむろに謙信公像を取り出して置いた。先生は謙信公像を眺めながら多くは語られなかったが、「この謙信公像はとにかく大切にしてください」と優しい口調でおっしゃった。その時参拝を終えた中年の女性が通りかかり、私達二人のやりとりを見て謙信公像に合掌されていたことが印象的であった。この謙信公像には心の素直な人に対しては自然にそうさせる何か見えない力、聖なる力があると感じた。私はこの出来事以来、勝手に「聖・謙信公法衣座像」と名付けている。
「もうそろそろ良い頃かな」と思い林泉寺に向かった。しかし駐車場にはまだ郵便局長の車があった。話が盛り上がっているのだろう。車の中でしばらく待つことにした。しばらくして北越出版の佐藤和夫さんがやってきた。佐藤さんとは過去何度かお目にかかったことがある。「何故これほど偶然に?」と思ったが、何のことはない、そのような人達が現れそうな場所を私がたまたま訪れているだけのことである。林泉寺に届け物があったらしい。用が済み車に戻るところで声をかけた。聖・謙信公法衣座像をご覧頂くと、「直江津の駅前の私の実家の蔵にも滝川美堂の謙信公像があります」「美堂の作品の中には銘の無いものもあるように聞いています」「丁度今発刊したばかりの{直江の津}の秋号に滝川美堂の特集が載っています」私はその場で佐藤さんが編集したその雑誌を購入した。その雑誌がその後聖・謙信公法衣座像の作者の解明に大変役立つことになるのである。佐藤さんと別れてから待つこと数10分、ようやく郵便局長が帰られた。
林泉寺宝物殿に入ると折しも住職は観光客を案内している最中だったのでしばらく後に像をご覧頂いた。「これは珍しい像をお持ちですね」「銘は無くても滝川美堂の作品に間違いありません。ただし断定はできませんが」「美堂の作品の中には銘の無い物もあったのかもしれません」「美堂の作品の中でも一桁台、下っても二桁台の初めでしょう」「私も美堂のこの種の作品は初めて見ました」座裏面の匂いを嗅いで「材種は楠です」「箱があれば完璧でしたね」「とにかくこの像は大切にしてください」と独特の抑揚の興奮した様子で畳みかけるように一気に話された。忙しい方なので早々に引き揚げようと思ったが逆に住職の方が離さなかった。聖・謙信公法衣座像に少しでも長く寄り添っていたかったのかもしれない。住職の心の中に熱いものがこみ上げているように感じた。ただあまりに断定的な物言いが若干気にはなった。
その日の夕方に中西さんに報告に出向いた。「楠については天平・飛鳥時代の仏像彫刻に多用され、それ以降の時代には檜や榧に移り変わっていった」ことなどのご教授を頂いた。
翌日、「直江の津」の滝川美堂の特集の創作(第1作目)謙信公像が高田中学(現在の高田高校)に納められたという記事を頼りに高田高校に校長先生を訪ねた。アポ無しの突撃である。もしも会えなければそれはその時、縁が無かったということでそのルートでの究明は諦めようという感覚である。幸い校長先生はいらっしゃった。「3月の卒業式にGACKT謙信をゲストとして招いた校長先生」とばかり思い込んでその話から切り出したが、この4月から高田高校に赴任したばかりとのこと、草間校長先生は「昭和16年の火災で残念ながら像は他の貴重な資料と共に消失してしまった。がしかし高田高校のOBの校長がいる直江津高校にも確か謙信公像があったはず」ということでその場で電話をしてくださった。さすがは「第一義」を校訓としている高校の校長先生だけのことはある。「午前中ならいる」とのことで「30分以内に伺います」と伝えてもらい直江津高校に急ぎ向かった。
着いてすぐに像を見せて頂いた。持参した聖・謙信公法衣座像とはかなり趣が異なっていた。像の底面には「第114号美堂」の刻印があった。後で判ったことであるが、美堂の長女は直江津高校の前身の直江津高等女学校の卒業生である。直江津高等女学校の開設10周年記念に当たる昭和9年に美堂から贈られたものである。若山校長先生は大変親切な方でその場で滝川美堂の四男の縁者に電話をしてくださった。東京在住の書家で直江津高校OBの宮本氏である。直江津高校が中高一貫校になったことを記念して作った玄関の校銘板の文字を書かれた人である。その文字を刻印したのが滝川美堂の四男の沼田竣五郎さんという因縁である。竣五郎さんと連絡がとれ、長女の今成美津子さん(90歳、五智2丁目在住)と三男の滝川光三郎さん(87歳、国府在住)の連絡先を教えて頂いた。
左側、聖・謙信公法衣座像 右側、直江津高校所蔵謙信公像
滝川美堂は明治13年生まれである。存命であれば128歳ということになる。子供さんは亡くなっているかもしれないと思い込んでいたが幸いにも存命であった。
直江津高校を退出しその足で五智の今成美津子さん宅を捜したが、その住所には他人の名前があるだけで会うことは叶わなかった。後から又改めて捜すことにして国府の滝川光三郎さん宅を訪ねた。昼時にかかっていたので気が引けたが思い切ってチャイムを押した。あいにく光三郎さんは不在であったが、長男のお嫁さんが応対してくださった。「東京の叔父からの連絡であなたがみえたらこの資料をお見せするように、と言われております」と「美堂とその家族達」という本を差し出された。その本は美堂の四男の沼田竣五郎さんが書かれたものであった。私は持参した聖・謙信公法衣座像を一時お預かり頂く代わりにこの本をお借りし、光三郎さんがお戻りになる頃に又お邪魔することを告げて林泉寺の駐車場に向かった。
駐車場で本を85ページまで読み進めると美堂の次男巌が生後10ヶ月で亡くなった時に「美堂が時の林泉寺の住職の許しを得て墓地の片隅に穴を掘り亡骸を埋め、墓標を尊敬する謙信公の墓の方向に向かって建てた」との記述があり、早速お参りすることにしてまず謙信公の墓にお参りをした。「謙信公の墓に向かって建っている墓はどれか」なかなか見つからなかったが、それは墓地の東側のはずれにあった。今成家の墓と一緒に並んで謙信公の墓に向かって建っていた。お参りを済ませてから光三郎さん宅に向かった。
光三郎さんは三男ではあるが、長男である故滝川美一(滝川毘堂・・・彫刻家、春日山城跡に建つ謙信公銅像の作者。美堂と毘堂、混同されることが多い)に代わり滝川家を相続している。5人の男兄弟の中で唯一芸術畑に進まず日本ステンレス(住友金属の前身)にサラリーマンとして永年勤める傍ら、父、美堂と同居し、仕事の合間に父の製作作業を手伝った。「美堂とその家族達」にあるように兄弟の中では最も温厚誠実な人柄である。美堂の形見分けの像を拝見した。製作年代ははっきりしなかったが本人の話から推定するに、昭和25年から30年の間位らしい。丈1尺程の堂々としたサイズであった。(謙信公法衣座像の大半は昔の鯨尺で4寸から5寸であった。因みに私が持参した聖・謙信公法衣座像は6寸である)座った姿勢が後ろに極端に反っくり返っていること、顔の表情に林泉寺にある像や直江津高校の像と共通点があり、聖・謙信公法衣座像の仏様のような穏やかな表情とは明らかに異なるものであった。「これは父の作品ではない。何故ならば父は作品には必ず銘を彫り込んでいたからです」と穏やかではあるがキッパリとした口調で話された。光三郎さんは仏壇の引き出しから美堂直筆の「上杉謙信公像納受芳名簿」を取り出して見せてくれた。美堂が明治45年以降の謙信公像を納めたことを記録した名簿で814体の記載がある。美堂は生涯で835体を製作したが、子供への形見分けはこれに含まれていない。私が持参した聖・謙信公法衣座像は残りの21体のうちの一つなのであろうか。お願いした訳でもないのに貸してくださった。この2冊の資料がこの後の作者捜しにどれほど役にたったか計り知れない。
左側 滝川光三郎氏所蔵 右側 聖・謙信公法衣座像
その晩、友人の田原さん宅を訪ねた。今回の作者捜しでは逐次経過報告をしていた。田原さんは私が一方向からしか見ていないと指摘をし「全く別の視点から見ることも大切だよ」と説き、その場で骨董の趣味を持つ友人の梅沢さんに電話をして呼んでくれた。梅沢さんは私が持参した聖・謙信公法衣座像を見て「これは欅に彫られていますね」と林泉寺の笹川住職の楠説をあっさりと覆した。梅沢さんが付き合いのある地元の骨董屋の仏像の目利きの伊東さんのことを教えて貰い、後に訪ねることになり私の作者捜しの転機となった。田原さんはいい加減なところがあるのであるが、物事の本質を見る目は確かでいつも貴重な助言を頂いている。
その夜「美堂とその家族達」を一気に読み終えた。翌日私は東京の雑踏の中にいた。「美堂とその家族達」の著者の四男沼田竣五郎さんに会うためである。存命の兄弟のなかで芸術畑に進んでいるのは竣五郎さんだけなので本人から直接所見を聞きたかった。ご自宅は池袋駅から西武池袋線で4つ目の江古田駅から徒歩5分程度の、込み入った住宅街の露地奥にあった。私は昭和45年から50年までの6年間中野区の江古田に住んでいた。あまりにも近い所だったのでこれも聖・謙信公法衣座像が取り持つ不思議なご縁と感じた。前夜「美堂とその家族達」を一読して本の内容はほぼ完璧に頭に入っていたので会話はスムーズで、敢えて前半の2時間ほどは持参した聖・謙信公法衣座像は出さなかった。(「美堂とその家族達」は著者の竣五郎さんが兄弟からヒヤリングをして書いたもので、驚くことにご自分でワープロを駆使して印刷までしたうえで、装丁だけを専門家の手を借りたとのことである。竣五郎さんは画家、彫刻家、書家、工芸家、篆刻家、実業家などの様々なことを手がけられた特異な才能、経歴の持ち主である。失礼ながら最も才能がある分野は「ひょっとしたら文筆家なのではないか?」と思えるほどの秀逸な出来栄えの本である。お金さえあればこの本を原作にした映画を製作してみたいと思った)話が自然に謙信公像のことになり、やおら風呂敷包み(聖・謙信公法衣座像の扱いとしてはぞんざい過ぎるようだが)から像を取り出しご覧頂いた。「親父のものに間違いない」「はっきりと断定することは出来ないが」「ノミの彫り痕に類似性がある」「銘が入っていないのは不思議である」「材種は楠です」とおっしゃった。竣五郎さんが昭和19年に出征する折りに父、美堂から餞に贈られた像を拝見した。兄、光三郎さんの像よりかなり小振りであったが像のイメージは同じで、持参した聖・謙信公法衣座像とは明らかに趣を異にしていた。私が「美堂とその家族達」を読み、深く感動したこと「この本を大勢の人に読んで貰いたいと思っている」ということを話すと「それは私にとっても願ってもないことです」と言われた。竣五郎さんの眼鏡の奥にキラリと光るものがあった。
帰郷後、長女である今村美津子さん宅に電話をした。電話口に出た、同居している長女の「母は高齢のため椅子に腰掛けた状態でも30分がせいぜいで、すぐに自室のベッドに向かってしまいます。面会は1時間以内でお願いします。」という条件の下で翌日伺った。訪れると美津子さん本人が玄関まで出迎えてくれた。想像していたよりは遙かにお元気そうで気品と品格に満ち溢れた方であった。持参した聖・謙信公法衣座像を見て「これは父の作品と違うような気がします」とおっしゃった。娘さんも「像を彫り出す重心の位置取りが祖父の作品と違う」ということであった。私は美堂が彫った可能性(私が持参した聖・謙信公法衣座像が限りなく仏像のイメージに近いことから、美堂が修行中の頃、仏像を見に京都、奈良に2年間滞在したこと、又その修行の旅に立つ前に林泉寺に「聖観音像」を奉納していること等「美堂とその家族達」を読んで得た知識を総動員して熱心に説いた。最後には私の説明に心を動かされたのか「あなたの話を聞いて80%は父の作品のような気がしてきました。」と美津子さんの考えは変化した。美津子さんが結婚した昭和16年頃に、美堂からお祝いに贈られた像を拝見した。兄弟の中では一番古い像であるが、今まで拝見した像とほぼ同じイメージであった。これより古い像が長男の故美一さんの所にあるのではないか、ということでその場で東京のご子孫の方に電話をして頂いたが残念ながら無かった。今成家を辞する時、予定の1時間を優に超え3時間を経過していた。美津子さんの精神力の強さには驚きを禁じ得なかった。
沼田竣五郎さんの「上越の図書館に(美堂とその家族達)を寄贈してある」という話を思い出し借りるべく高田図書館を訪れた。本を短期間に大勢の人に読んで貰うにはなるべく沢山の冊数があると都合が良いと考えたからである。受付で検索して貰ったら簡単に見つかった。ついでに貸し出し履歴を検索してもらった。「平成8年に寄贈され、それ以降12年間で二人です。」ということであった。6年で一人ということになる。「これはやはりもっと日の目をみるように努力しなければ」と思った。もしかすれば美堂の地元である直江津図書館ならひょっとしたら2冊位あるのでは」と思い、その足で向かった。申し込むと職員は「その本は既に貸し出されています。今月の30日なら貸し出し可能ですが予約されますか?」私は「12年間でたったの二人なのにどうしてこんなに短期間に?」と思ったが、なんのことは無い、私への貸し出し情報がオンラインで伝わっていただけのことであった。
私の住む春日山町に程近い、名簿の第14号(大正9年5月納品)の像を所有する、木田の田原源蔵さん宅を訪ねることに決めた。「お寺であれば多分ご存知だろう」と期待して木田の高速脇の保倉山福成寺を訪ねた。あいにく住職は不在であったが奥さんから親切に対応して頂いて、無事田原源蔵さん宅に辿り着くことが出来た。家人にによると田原源蔵さんは旧春日村の村長を4期務められた名士であった。春日山城は旧春日村内にあり滝川美堂も旧春日村の五智に住んでいた。名簿の中の備考欄に度々「田原源蔵氏紹介」の記載があることからして有力な後援者であったことが推察出来る。奥さんが2階から像を持ってきてくださった。像は大切にされていたことが窺われ、90年近くの歳月を経ているにもかかわらず保存状態は良かった。名簿によると丈は1尺1寸、代金48円の堂々たる作品である。(当時の美堂の作品は、丈4寸から5寸で代金も4円から6円が大半であった。美堂は会員を募り、月に50銭の積み立てを1年間してもらい、奥さんが乳飲み子を背負いながら集金に歩いた。製作した像を交換に渡し、得た利益で製作を続けながら、足掛け10年の歳月を経てようやく念願の謙信公法衣座像を林泉寺に奉納した。今風の寄付を募るだけの安易な方法ではなかったのである。像は初期の作品らしく丁寧に彫られていた。今までに見た作品とは趣が明らかに異なっていた。木目込みの雛人形のように温和な表情であった。今までに見た像のように下膨れの表情ではなく、穏やかで均整がとれている(大正2年の秋、美堂は妻を伴い京都に行き人形師として働いている。)私が持参した聖・謙信公法衣座像に近づいた感じを受け心が躍った。帰途、お寺にお礼の挨拶に伺った。住職は戻っていた。「滝川家は戦後の一時期事情があってうちの檀家だったのですよ」「滝川家の五智2丁目にはうちの檀家が多かったからなのです」「事情があって今繋がりは無いのですが、2階に法事の時の引き出物の謙信公像があります」とのこと。たまたま飛び込んだお寺が滝川家と繋がりがあった。不思議なご縁である。(美堂の五男智明は若干20歳で日展の彫刻部門に入選したが、昭和29年、26歳の若さで腸閉塞により急逝している。この頃林泉寺との間に何かがあり当寺にお世話になったのだろうと思われる)
左側 聖・謙信公法衣座像 右側 田原源蔵氏所蔵
以前、田原さんが話していた地元の骨董屋の仏像の目利きの伊東さんのことを思い出し訪ねた。私は聖・謙信公法衣座像を骨董的価値では評価していない。極論すれば「作者が誰であっても良い物は良い、好きな物は好き」なのである。滝川美堂は生涯に835体の謙信公像を彫っているが、沢山彫っている分「骨董的価値はあまり高くない」と推定出来る。「鑑定料はどうなりますか?」との問いに「地元の方でもありますから宜しいですよ」と伊東さんは柔和な笑みを浮かべながら答えた。骨董屋ということから「胡散臭い人物なのでは?」という先入観を持っていたが心配は杞憂であった。私は何の説明もせずに聖・謙信公法衣座像を風呂敷包みから取り出してテーブルの上に置いた。伊東さんは像をひと目見るなり「これは滝川美堂の作品では無いですね。何故ならノミの彫りがが大変厳しいからです」「このレベルの像を彫るとすれば高田で幕末に活躍した彫刻師の後藤正義一派の誰かということが考えられます」「後藤正義は幕末に亡くなったが、弟子が代々正義という銘を受け継ぎ江戸、明治、大正、昭和(戦前)の四代にわたって活躍しました。たしか代表的な作品には高田の浄興寺の奥の彫り物があります。材料は欅ですね」「後藤正義は(越佐工芸人名鑑)に載っています」伊東さんは淡々と語った。林泉寺の笹川住職の見解とは全く異なる説である。私はこの謎を解明するためにこれ以降、美堂の初期の作品捜しにさらに没頭することになる。その重要なきっかけを伊東さんは与えてくれたことになる。
市教育委員会の中西さんを再び訪ねた。「浄興寺の奥の彫り物」を誰が彫ったか調べて頂いたが後藤正義では無かった。(私自身は後藤正義一派が何らかの形で関わっていた可能性は否定出来ないと思っている)次に幕末に活躍した後藤正義一派を調べて頂いたが判らなかった。その代わりに「郷土史の研究家で(高田藩)の著者の村山和夫さんなら」ということでご紹介を頂き、本人に連絡をとってみたが「判らない」ということであった。
材種の鑑定の為に上越森林管理署に出向いた。「木目の特徴からして欅に間違いないでしょう」「正確性を期するなら筑波に独立行政法人森林総合研究所がありますのでそちらで調べて貰ってください」とのことであったが私にとっては鑑定費用が高額なので断念した。(その後、木と遊ぶ研究所や地元の家具製造家数名の方からも鑑定して貰ったが欅説が大勢であった。私自身も木材については一般の人よりは詳しいと自負している。私の第一感は欅であった。楠は肌理については細やかで欅よりは粘りがあり彫刻に向いているという。防虫剤として使われていたように独特の強い芳香がある。以前、美堂の長女宅で拝見した昭和10年頃の美堂作の雛人形は楠に彫られていたが、70年以上の長い歳月を経ても尚強い芳香がした。いくら保存状態が違うとはいえ、楠ならば多少は独特な匂いがするはずである。
その日の夕方再度林泉寺の笹川住職を訪ねた。庫裏の座敷で丁重に応対してくださった。私が「美堂の作品である」という住職の見解に疑念を抱いていると感じられたのかもしれない。「これは正真正銘美堂の作品に違いありませんよう~」「あなたは安心して良いのですよう~」独特な抑揚の強い口調できっぱりとおっしゃった。「私としては美堂の作品であろうと無かろうとその価値は不変です」私にはその言葉を飲み込んでただひたすら聞き役に回るよりすべが無かった。「あれほどの像を彫った人はどのような人なのか?どのような人生を歩んだのであろうか?」私の関心はただその一点に集中していた。住職は「当寺には美堂が奉納した仏像が数体あります」「以前、美堂のお子さんに(あなた方のお父さんはこれ程の仏像を彫られた大変な方なのですよ)と話してご覧頂いたが、あの方々はどの程度理解されたのか、多分何も判らなかったことでしょう」と話された。私はその仏像を拝見すれば決定的な解明のヒントになると思って意気込んだが、生来の押し出しの弱さがたたってお願いすることが出来ず、結局拝見する機会を逸してしまった。仏像は見せられないがその代わりなのか「美堂の作品の証拠として美堂が奉納した本堂の謙信公像をお見せしましょう」「背面の体の中心の縦横のライン、袈裟の裾の表現はあなたのお持ちの像と全く同じですよ」「普段はそこまでは誰にも滅多にはお見せしないのですがご案内しましょう」辺りは既に真っ暗闇であった。住職は電灯を次々と灯しながら本堂奥の像の後ろまで案内してくれた。しかし冷静に考えてみれば背面に類似性があるといっても謙信公像は835体も彫られたのである。当時の人にとって謙信公像を目にする機会は多かったと考えられる。謙信公像の構図の元の自画自賛の法衣座像は肖像画であるので背面は想像するより無いが、彫像を見れば簡単に背面まで見ることが出来ることは自明の理である。「背面に類似性があるあるからといって美堂の作品とは断定出来ないのではないか?」住職のあまりにも自信に満ち溢れた解説にかえって何か引けてくるものがあり、骨董屋の仏像の目利きの伊東さんの話が益々気になりだしはじめていた。
それからは滝川美堂直筆による「上杉謙信公像納受芳名簿」を頼りに美堂初期の作品を捜すことに拍車がかかった。電話帳をめくり名簿の住所名前を頼りに電話をかけまくった。が、そんなことではことは簡単には運ばなかった。ただその中の一人から「市の公文書館に問い合わせたら」という助言を頂き公文書館を訪ねた。応対された指導主事の川上さんは直江津出身の方で「この高橋達太さんなら直江津のライオン像で有名な高達倉庫の創業者です」と名簿の1ページ目を指差した。そこには第5号大正4年3月納品丈1尺代金18円との記載があった。「港町に高橋達太の家があり、現在はその子孫の縁者である加藤さんという方が管理されています」「加藤さんは歴史的なことに大変熱心な方です。あなたがその像を拝見したいのなら、その前に加藤さんの話をよく聞かれることが先決でしょう」との助言を頂いた。
早速、公文書館の駐車場で教えて頂いた電話番号に電話をした。川上指導主事の言うとおり「まず私の話を聞いて欲しいし高橋達太邸も是非見て欲しい」と言う。電話番号の局番から妙高市在住の人だと判った。1時間後に旧高橋達太邸で会う約束をした。旧高橋達太邸は直江津の港町の保倉川沿いの樹齢数百年の松林に囲まれた大きな敷地の中にあった。邸内をつぶさに案内して頂いた。当時の地方財界の大物の邸宅としては質素な作りで生家の板倉を彷彿とさせるものが随所にあった。高橋達太の生い立ち、高達倉庫のこと、高橋達太の生家板倉と直江津の歴史的な関わりなど、加藤さんの政治、経済、文化に渡る知識の幅広さにはほとほと感心した。話の中で特に印象的だったのは「中世以前、今の三和、頸城、大潟などは湿地帯が多く、その中で板倉は上越後(かみえちご)の中の最も優良な穀倉地帯のひとつであった」「上杉氏から堀氏を経て徳川江戸幕府直轄地に代ってから、年貢米は関川の水運を利用して板倉の田井から直江津を経て江戸まで運ばれた」「上杉氏の時代には良質米をもって上杉氏の重要な財政の一翼を担っていた」「上杉氏会津移封により、武士、僧侶などは越後を後にした訳だが、残った住民の中で謙信公の(第一義)の精神を最も良く受け継いだのは、さもあらん、板倉の人達であったのではないか」筆者は板倉出身なので話を聞いていて何か嬉しくなってしまった。
翌日、玄関前のライオン像で有名な高達倉庫を案内して頂いた。昨年の中越沖地震でレンガ造りの塀が倒壊したとのことであるが建物本体は非常に頑丈なように見えた。有限会社高達倉庫は今も立派に現役なのである。加藤さんの話によると旧直江津銀行を模したものらしい。高橋達太邸と共に国の登録有形文化財の指定を受ける価値は充分にあると感じた。室内は沢山の調度品や置物で溢れていた。その中でもとりわけ入って正面の等身大の沖仲士の木像と女性の裸像の大作が目を引いた。両方共美堂の作品ということからして高橋達太が美堂の有力な後援者であったことが推測出来る。中央正面の高い台の上に謙信公像は鎮座していた。きめ細かい顔の表情には木田の田原源蔵宅の第14作の像との共通点があった。しかし像全体の印象は今までに見てきた像の延長線上にある。どうしても持参した聖・謙信公法衣座像とはイメージが完全には重ならない。大正4年3月納品とあるので、大正2年の高田中学の(謙信文庫)の第1作目の作品とは僅か2年の隔たりしかない。「果たして聖・謙信公法衣座像が美堂により彫られた物であろうか?」との疑問がより一層私の胸の中に膨らんできた。
左側 聖・謙信公法衣座像 右側 高達倉庫所蔵
「春日山城を守る会」の事務局長の岩木在住の佐藤昭夫さん宅を訪ねた。佐藤さんは永年謙信流陣太鼓のリーダーとして活躍されている。聖・謙信公法衣座像をご覧頂くと「うちにも同じ像がありますよ」と言う。旧春日村の村会議長を1期務められた金平おじいさんが購入した物という。納受芳名簿によれば昭和30年秋の納品で第742号とある。像の底面にその旨の刻印があった。今まで拝見してきた像の中では美堂の最晩年の作品である。像のイメージは今まで拝見した物と同じである。地元の名士の家柄とはいえ偶然私の知人の家にも像は存在していた。美堂の多作ぶりが窺える。(美堂は謙信公像を1,000体彫ることを祈願して生涯に835体を彫った。死後は長男の美一{彫刻家、滝川毘堂}が遺志を受け継いだ)
佐藤昭夫さん所蔵の謙信公法衣座像
骨董屋の仏像の目利きの伊東さんから聞いた彫刻師後藤正義のことが気になり、図書館で(越佐工芸人年鑑)を借りた。彫刻の部の中にその弟子を含め後藤正義一派8人の記載があった。中には生没年が不詳の弟子が何人かいた。極端なのは(高橋某)と三代正義の四番弟子で大正、昭和(戦前)にかけての人であるのに名前さえ不詳なのである。当時の彫刻師の弟子達の社会的な評価の低さが窺える。後藤正義(石倉正義ともいう)の欄に「慶応3年、正義の墓が弟子達の手により高田寺町の高安寺に建てられた」とあり高安寺を訪ねた。生憎住職は不在であったが奥さんが応対してくださった。奥さんの後を歩きながら「綺麗に整備されていますね」と話しかけると「私なんか何の取り柄もありません。50年間寺から一度も出ることも無くただひたすらに草むしりをするだけの毎日です」と苦笑いしながら達観したような口調で話された。広大な敷地の北西の隅に辿り着くとそこに驚くべき光景が目に飛び込んできた。杉の大木の根の成長で墓石は無残にもバラバラに転がっていた。想像するに後藤正義は独り身であったのであろうか。正義一派は戦前まで活躍していたので寂れてしまったのはその後であろうか。今は訪れる人も無く歴史の表舞台からは完全に忘れ去られた存在なのであろう。以前お参りした林泉寺の滝川家の立派な墓を思い出しそのあまりにも対照的な目の前の姿に私の体は一瞬に凍りついた。しばらくその場に呆然と立ち尽くしながら、私の心の中には判官贔屓から探し求めていた聖・謙信公法衣座像の作者は「正義一派の腕利きの弟子ではないか?」という骨董屋の伊東さんの解釈が支配的になった。こじつけになるかもしれないが「正義」の名の二つの文字から「破邪顯正」「第一義」の謙信公に繋がる二文字が脳裏をかすめた。
以上の出来事は2008年の9月8日から僅か1ヶ月位の間のことである。途中仕事の都合で空いた期間もあるので本当に集中して動いたのは高々二週間程度のことである。その度に聖・謙信公法衣座像をお借りしいつも行動を共にさせて頂いた。謙信公もさぞかし目が回られたのではないかと思うが私にとっては至福の時であった。
寺町高安寺の出来事からしばらく間をおいて、聖・謙信公法衣座像の現所有者の水野さんの紹介で燕温泉のホテル岩戸屋さんを訪ねた。「確か立派な謙信公の甲冑像がある」と聞いたからである。岩戸屋さんの分家の燕ハイランドホテルの宮澤社長が案内してくれた。像はロビーの中央に聖観音像と共に並んでいた。社長の叔父さんに当たる主人が丁寧に説明してくれた。「関山の宝海寺(上杉謙信公の甥に当たる俊海大和尚が林泉寺の命により開山に尽力、禅宗)の宮澤良英さん(主人の父)が甥の陸軍中尉の宮澤良正氏の戦死を悼んでその遺徳を偲び、当時の関山国民学校に寄付したものである」故良正氏は第一義を校訓とする高田中学の出身で上杉謙信公を深く崇拝していた。私はこれまで美堂作の謙信公法衣座像を8体拝見してきたが甲冑像は初めてである。納受芳名簿によれば「昭和17年7月注文を受け同年9月7日納品」とある。丈2尺5寸の専用台座付きの堂々たる物である。敗戦による進駐軍の「鎧、兜、刀などを付けている像は教育現場に相応しくない」という命により行き場を失った像は学校から寄贈者の宮澤良英さんの元に返還されたものだという。(ここ数年の間に春日山神社の境内の中の向かって右奥にあった教育勅語を刻んだ石碑や鳥居の向かって左側にあった陸軍大将の、上杉謙信公を賛美する文章を刻んだ石碑が相次いで撤去された。現在、当時の軍国主義教育を彷彿とさせる名残りは何も無い。私見ではあるが、上杉謙信公には功はあっても何の罪も無い。「臭い物に蓋」ではないが、安易に撤去するのではなく、後世の人が勝手な都合で国家護持体制の維持に利用し国策を誤っただけのことであるので、ここは敢えて「このような過ちを決して再び繰り返してはならない」という戒めとして、何らかの形で歴史の生き証人として残す方法もあったのではなかろうか)甲冑像は確かに立派ではあったが著しく全体のバランスを欠いていた。正面から見ると胴が異常に細く奥行きの方がむしろ長い。膝から下の不自然な短さといいプロポーション的に破綻をきたしているのは明らかである。「美堂とその家族達」によれば、美堂は昭和10年には座像4体、甲冑像1体、騎馬像2体の計7体を製作している。翌11年には座像17体、甲冑像1体、騎馬像1体の計19体と、戦争が激しくなると共に年々増え続け、ピーク時の昭和14年には座像57体、甲冑像2体の計59体を製作している。これはなんと6日に1体のペースである。実際には謙信公像以外の仕事もあったであろうことを考慮すると驚異的な数字である。因みに当該謙信公甲冑像が彫られた昭和17年は座像15体、甲冑像1体の計16体で23日に1体のペースに落ち着いているのである。あまりにもの忙しさの中で心ならずも仕事が粗くなったとは考えにくい。
5,聖・謙信公法衣座像(彫像)の作者は誰か?
今までに見てきた美堂の謙信公像を下表にまとめてみた。
- 第 5号 大正 4年 中頸直江津 高橋達太
- 第 14号 大正 9年 木田 田原源蔵
- 不明 大正13年 林泉寺(本堂内)
- 第114号 昭和 9年 直江津高等女学校(現直江津中等学校)
- 不明 昭和16年 五智 長女 今成美津子
- 第320号 昭和17年 関山 宝海寺 宮澤良英
- 不明 昭和19年 四男 沼田竣五郎
- 不明 昭和27年頃 国府 三男 滝川光三郎
9. 第742号 昭和30年 岩木 佐藤金平
4で縷々述べてきたように1,2以外の像は全て聖・謙信公法衣座像とは趣が大幅に異なる。1,2まで遡ってようやく「少し近づいたかな」という程度である。作者捜しの旅はいまだ中途である。これは永遠の謎となるかもしれないし又その方がむしろ良いのかもしれない。現時点での私の推理を記したい。結論から先に言えば「聖・謙信公法衣座像は滝川美堂の作品では無い」美堂の作品の一部(835体の内の僅か9体)を見ただけのことではあるが、いくら初期の作品に辿っても、そこからは聖・謙信公法衣座像と結びつくものを感じ取ることが出来ない。同じ人間が彫ったとしたらこれ程に作風が変化することがあるものであろうか。異なる点を列挙すればキリが無いが端的に言えば「聖なるものと俗なるもの」の違いを感じるのである。
聖・謙信公法衣座像に銘が無いということについて考察してみる。美堂と最も長く暮らした三男光三郎さんの「父の作品であれば、作家としての証である銘を必ず刻んだはずである。刻まないということは有り得ない」という証言があったが、美堂が初めて創作謙信公像を彫ったのは、明治45年から大正2年の間である。三男光三郎さんは大正10年生まれであるので、少なくとも生まれる前のことは後にご自身の目で確かめるか、母親などから聞くとかしない限り不明なはずである。ただ美堂が明治42年に林泉寺に奉納した聖観音像や、林泉寺住職の「林泉寺には美堂が奉納した仏像が数体ある」との証言から、仏像については作者の銘を刻むのはタブーであることからして、これらについては銘を刻まなかった可能性は残る。そうであれば明治45年から大正3年までの間の制作ということになるのであろう。
6,今の時代に聖・謙信公法衣座像(彫像)が出現した意味は何か?
この文章を読まれたあなたは聖・謙信公法衣座像を見て何を感じるでしょうか。優しく穏やかに微笑む聖・謙信公法衣座像は現代の私達に何を語りかけているのでしょうか。暗い闇の中から長い封印を解かれ何故今の時代に現れたのでしょうか。
春日山城本丸内に謙信公が書き付けたといわれる壁書には、戦に臨む際の生死を超越した謙信公の苛烈な心構えが偲ばれる。
運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり
何時も敵を掌に入れて合戦すべし、
疵付くこと無し
死なんと戦えば生き
生きんと戦えば、必ず死するものなり
家を出ずるより、帰らじとおもえば、又帰る
帰ると思えば、是亦帰らぬものなり
不定とのみ思うに違わずといえど
武士たる道は不定と思うべからず、
一定と思うべし
幾多の戦いに臨み、多くの死を目の当たりにする中で、深く神仏に帰依していった謙信公。「我即毘沙門天」にあるように、敬虔な宗教者の姿を超えて、謙信公自身が仏になりきってさえいた。
宗教の原点は「心の在り方」にあると言える。謙信公家訓16箇条は全て心の文字から始まる。同時代に競い合った、利にさとい武田氏、北条市など、数多くの大名が滅びる運命の中、「第一義」を掲げた上杉氏は幾多のお家断絶の危機を乗り越え現代に生き残った。
党利党略、私利私欲ばかりで国民生活をないがしろにして平気な政治、国民の血税を食い散らかす高級官僚、企業の偽装に始まる「儲かりさえすれば良し」とする社会風潮、そしてそれらを最終的に政治不参加という形で許す国民。古き良き日本人の美徳は一体どこへ行ってしまったのであろうか。
聖・謙信公法衣座像の現所有者の「心ある人がいない」という嘆きが私の心に深く突き刺さる。